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【木曾(源)義仲および木曾軍略年譜】

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1154年:義仲、誕生。幼名は駒王丸。


1155年:父・義賢が従兄・義平に討たれる。(大蔵合戦)


義平によって駒王丸殺害の命が下るが、畠山重能・斎藤実盛らのはからいによって

母・小枝とともに乳母父・中原兼遠の治める信濃国木曾谷に逃れる。

この地で駒王丸は、兼遠の子供達である今井兼平、樋口兼光、巴、落合兼行らとともに成長する。

 

1167年ごろ元服し、名を義仲としたとされる。(※場所は京都・石清水八幡宮であるという説がある。)

また、この年に母・小枝が亡くなったとされている。


1180年:後白河法皇の子・以仁王の平氏追討の令旨を受け、挙兵。

ちなみに義仲の異母兄・仲家はこの以仁王の挙兵に従い、戦死している。

 


1181年:6月、横田河原の戦いで勝利。


この頃から義仲は北陸に勢力を広めはじめる。

 

1183年:2月、頼朝と敵対していた頼朝・義仲双方の叔父、志田義広が

頼朝討伐を企て挙兵するが、敗北し、逃げ落ちて行方をくらませる。(野木宮合戦)


春ごろに義仲は、この義広と、頼朝から追い払われた同じく叔父・新宮行家を庇護。


これによって頼朝との関係が悪化するが、義仲は自分の長男・義高を頼朝の長女・大姫の婿として人質に差し出し、

これによって両者の正面衝突は回避されることとなる。

 

5月、倶利伽羅峠の戦いで大勝。源平合戦中最大の平家軍の死者を出したという。


6月、篠原の戦いで勝利。しかし、命の恩人・斎藤実盛の死を目の当たりにする。

 

7月、平家を京都から追い出し入京。行家とともに後白河法皇に拝謁。“朝日将軍”の称号を与えられる。

 

閏10月、水島合戦。平家軍に惨敗。有力武将である矢田義清と海野幸広が戦死する。

 

後白河法皇および頼朝との不和は決定的なものとなる。

 

11月、後白河法皇を襲撃・捕縛し、幽閉する。(法住寺合戦)

 


1184年:1月、平家との和睦工作や後白河法皇を伴っての北陸下向などを模索するが失敗。

頼朝に派遣された義経・範頼軍が迫り、宇治川で衝突するが惨敗。(宇治川先陣)

 

21日、滋賀近江まで敗走し、討ち死に。(粟津の戦い)

義仲は自害を試みるも失敗し討ち取られ、最愛の乳母子・今井兼平は自害。(※漫画版はこちら)

 

義仲の愛妾で兼平の妹・巴は離脱。(※漫画版はこちら)

 

義仲の家臣・手塚別当と手塚光盛は自害・討死。(※漫画版はこちら)

 

 


〜義仲の死後〜

 

義仲らが散った4日後の25日(※2月2日説もあり)、兼平の兄である樋口兼光が斬首される。(※漫画版はこちら)


4月26日、頼朝のもとに人質に出されていた義高が誅殺される。(※漫画版はこちら)

5月4日、義仲の死後も抵抗を続けていた志田義広が斬首される。(※漫画版はこちら)


約1年後の1185年3月、頼朝の妻・北条政子の猶子になっていた義仲の妹・宮菊が鎌倉へ召喚される。

(宮菊に付き従う者たちが、宮菊の威を借りて乱暴狼藉を行っていたためである。)


5月、都から鎌倉に参上した宮菊は自分の無実を訴え、これを憐れんだ頼朝・政子夫婦から赦される。

その後は美濃国遠山荘の一村を与えられ、兄・義仲の菩提を弔ったとされている。

 

3年後の1187年8月15日、義仲の義父であり、手塚別当・光盛の親族でもある金刺盛澄が流鏑馬を行う。

盛澄は死刑を待つ身であったが、これにより頼朝から赦され、生き長らえた。

 

粟津の戦いで生き残った巴御前は、義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、義仲達を日々供養したと伝わっている。

これが現在滋賀県大津市にある"義仲寺"である―――


(※盛澄・巴のくだりについての漫画版はこちら。)

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